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当オフィスの方針

人が悩みやすい時期がライフサイクルの中でいくつか存在すると考えられます。乳幼児期、思春期~青年期、中年期、初老期、老年期という分け方が一つにはできるでしょう。赤ん坊は実のところ深くものを考えていると言われることがありますが、昨今の乳幼児精神医学の知見によれば、胎児はすでに外界について何らかの認識をしており、生後まもなく母親(内的対象)を知覚して微細なコミュニケーションをとり始めることが知られています。思春期~青年期に深く思い悩むことは多くの若者にとって自然な営みと言えます。しかし最近では、超高齢社会に向かうことと並行して、社会人として一人前とみなされるだけのキャリアを積むのにも時間がかかるようになってきています。一説には30歳頃までが青年期とみなされることもあります。中年期は30代半ばから、かつてなら50歳前後までを指していました。ところが、中年期も60代にまで延ばしてとらえた方がよいのではないかという考えも耳にするほどに、超高齢社会になったことで65歳以上を老年期とすることにも違和感を覚える方が多くなってきました。

加速度的な情報化の波にさらされるなど社会の変動が大きくなるに連れ、私たちはそれに適応することに精一杯であるなど、一つの会社に入って職業人生を全うするといった従来共有されていたモデルケースも崩れつつあります。その中で悩みが深刻でありながらも、落ち着いて考える余裕もなく、孤独のうちに様々なプレッシャーを感じつつも、周囲の意向や状況に流されたままという方も少なくないことでしょう。こうしてみると、人生の多くの時期が結局のところは悩みやすい時期にあたるということになりえますし、深刻な心的危機が訪れたことが全くない方は殆どいないのではないでしょうか。人を愛するとはどういうことなのか、人を憎んでしまう自分はおかしいのだろうか、生きることや死とは何なのか、あるいは働くことの意味とは何かといった問いについて、突き詰めて考えてみた末に袋小路から抜け出せないような事態に陥ることがあるかもしれません。精神科的な病を治すことのみならず、そのように際限なく悩み果てて切迫したものを感じた時に、精神分析的な営みは特にお役に立てるものの一つであると、週4日の精神分析を数年間受けた体験に基づいて私は確信しています。

生きることにまつわる真に迫る体験をするためには多くの時間を、精神分析なら週4日以上、精神分析的セラピーなら週1~3日のセッションを要するわけですが、それほどまでに濃密で多くの時間を分析者と共にするという点で質、量ともに重厚な治療的営みの一つと言えます。また、多くの精神療法の源流が精神分析であるという歴史的コンテクストもあるのです。しかし、多くの方にその機会を提供するのは難しいという欠点があります。それは、すべての食材に徹底的にこだわるところから着手しているオーダーメイドの料理のように相当な手間暇が必要とされ、多くの方には供給が難しいのと似ています。また精神分析的な営みでは専門家である分析者ではなく分析を受ける方々が本来的には主役ですから、専門家が自分のペースで何かを教育するような類のものではありません。分析を受ける方に自由に連想してもらうところに尽きるという点がユニークなところでしょう。

ここまで読んでいただいた段階で、哲学をしているようで難しいという印象が沸き起こっているかもしれません。自然科学全盛で効率化が最優先の時代にそんなに手間暇をかけてどうするのだといった声もあるかもしれません。ここまでに私が記した中では精神分析体験を、オーケストラの演奏を聴くこととか、食材にこだわり抜いてからオーダーメイドの料理を提供することと形容しましたが、それらはどなたであっても求めてみれば体験する機会が得られるものです。対話を繰り返すこと、自由にものを考えることを軸にした精神分析という営みにはもう一つの特徴があります。それは、被分析者の主観的な体験が十二分に取り扱ってもらえるというものです。そこにこそ、その人の心的なリアリティが現れているという意味において専門家の助けが役に立つのです。心的なリアリティに迫ること、つまり被分析者の主観的な体験世界を共に考え抜くことが精神分析の大きな特徴と言えるでしょう。

The Basilica i Temple Expiatori de la Sagrada Familia is a large Roman Catholic church in Barcelona, Spain, designed by Catalan architect Antoni Gaudi (1852.1926). Although incomplete, the church is a UNESCO World Heritage Site.

心理状態を掘り下げて考えてみるための試みとして二つほど例をあげてみましょう。小学生の男の子が隣りの席にいる女の子に対して嫌いだと言ったりちょっかいをかけたりするシーンはよく目にするものです。こうした場面の発言内容だけを抽出して論理的に考えるのなら、“その男の子は隣りの女の子のことが嫌いである”という文字通りの推測をすることになりそうです。しかし、こうしたストーリーの断片を耳にした私たちの多くは、その男の子は本心では隣りの女の子のことが好きなのかもしれないと直感的に空想しているのではないでしょうか。この現象についての一つの説明としては、“その男の子は(自分にとっての理想の女性イメージを喚起させられていた隣りの女の子のことが内心では物凄く好きだった。しかし、自分の理想とは違うと判明したので、それまでの期待が強かった分、急にその女の子のことが嫌いという感覚が芽生えており)その女の子のことを嫌いと言っているのだ。(でも、それは、その女の子のことが好きであり続けてきたからこそ、嫌いという気持ちが反動で強く生じているのだろう。そうした複雑な思いをごまかすためにちょっかいをかけているのだろう)”というものです。括弧の中の様々な心の事情が省略されて発言がなされているのが実態だと言えるでしょう。

もう一つの例として、職場で上司から厳しい言葉を浴びせられたと体験したことを契機に中間管理職の男性社員が深刻なうつ状態に陥ったというケースを考えてみましょう。こうした場合、精神科医療ではまずは休養をとること、適切な薬物療法を受けることが提案されるのが定番です。あるいは、産業医の介入のもとで彼にとって現部署が適切かどうかが検討されたり、上司によるパワーハラスメントと見立てられるなどして、環境調整の一環として部署変更という選択肢もありうるでしょう。しかし、その上司が男性社員の父親を彷彿させる威厳のある人物で、その男性社員にはとりわけ期待をかけていたというケースも考えられます。この場合、うつ状態を招いた加害者が一見したところ存在しないかのようです。ところがその内実としては、上司/父親の期待に応えられない自分のことを、その男性自身が責めている状況が想定されます。その男性が抱いていた自己非難の気持ち、高すぎる理想像を自分自身に押し付けてきたのだけれど、そうした自らの期待にこたえられると思っていた自分を喪失してしまったこと、父性を感じさせる人物に対する劣等感、並行して生じていた上司/父親への怒りの気持ちを押し殺して自分自身に向けてきたこと。それらが彼の本心の総体で、うつ状態を引き起こしてきたのだろうと想像されます。水面下で存在していたはずの同様の苦悩について、それまでのように蓋をしたままにするというやり方では太刀打ちできなくなった状況が明らかになったわけです。職場での出来事にとどまらず、そうした苦悩や葛藤が彼自身を圧倒している、つまり深刻なうつ状態は自らが招いたものであるということが考えられます。

主観的な体験について、例えば上記のように体系だったものの考え方をすることは貴重な機会と言えるでしょうが、そのためには確かな理論的背景に裏打ちされたものがないと、私たち臨床家の中の、ともすると個人的すぎる偏ったものの考え方だけで独自に判断してしまうことになりかねません。話はやや理論的になりますが、精神分析家S.フロイトが想定した無意識は歴史的にも大きな発見の一つとされています。S.フロイトは性的外傷説から本能論にシフトしていくことで寝椅子を用いた精神分析という営みを完成に近づけていきました。中でも精神分析の本質を抽出して深化させたのがM.クラインです。M.クラインによれば、生後6か月頃で乳児の心のモデルの雛形が構築されるとされています。心のモデルとは、人がそれぞれ無意識のうちに空想するのに大いに役立ったり、他者と接触することで終生を通じて変容していくものです。M.クラインを源流として、W.R.ビオン(集団心性、思考機能について)、H.シーガル(象徴機能について)、D.W.ウィニコット(環境としての母親、遊ぶことについて)、H.ローゼンフェルド(精神病、破壊的自己愛について)といった人たちが英国対象関係論の発展に貢献していき、世界中で最も良く知られた精神分析理論となりつつあります。当オフィスでは精神医学的現実も視野に入れつつ、英国対象関係論的な立場からの精神分析、精神分析的セラピー、ケーススーパービジョンなどをご提供させていただきます。